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批判と誹謗中傷は違うもの「正しい批判」と「正義の暴走」の線引きとは

投稿日:2020年5月25日 更新日:

ネット上における誹謗中傷の是非が、常に話題に上がる時代になりました。誰彼構わずメッセージを送れるようになってしまった弊害が、至るところに散見されます。

そこで皆さんは、批判と誹謗中傷の違いを明確に考えたことがありますでしょうか?

実際のところ批判はこの世界に無くてはならないもので、誹謗中傷とは区別して考えられなければなりません。しかし現状ではこの2つの区別は非常に曖昧なものであり、混同されて語られてしまっているように感じられます。

この記事ではその批判と誹謗中傷の違い、そして多くの人が陥りがちな誹謗中傷の在り方について、しっかりと考えて行こうと思います。

批判と誹謗中傷の違い

物事の悪い印象には、明確な理由があるものです。
良い印象の多くは感覚で捉えるものですが、悪い印象には必ずそう思ってしまう理由が存在します。

試しにあなたが考える「悪い人」を頭に思い浮かべてみてください。誰かを殴った、暴言を吐いた、何かを盗んだなど、自分または他人にかけた「具体的な迷惑」をもって"悪い"という感情が出てくるのではないでしょうか。

このように悪い理由・嫌われる理由は具体的かつ明確であることがほとんどであり、考えれば絶対に辿り着くことができます。

批判とは、この「具体的な迷惑」に対して行われなければならないものです。それが思い浮かばないのに相手を攻撃したくなる場合は、分かるまで考えなければなりません。

「何となく嫌」「私は嫌い」という理由で他人の行動を否定することは、どんなに正しい理由があっても誹謗中傷です。感情とは別のところにある理由のみを理路整然と指摘すること。それこそが批判です。

自分の中にある負の感情に対して「何故、悪いと思うのか」をひたすら自問自答してみれば、その"何故"の先には必ず答えが見つかるものです。何かを批判することはこの"何故"を追求し、現実を紐解いていく過程そのものです。

その内容の筋が通っているのであれば、それは批判として成立します。逆に成立している批判に対して、「お前だって誹謗中傷をしている」と言ってしまうこともまた正義ではありません。

この社会は常に批判の目に晒される可能性が存在することによって是正され、発展を遂げてきています。その正しき批判が誹謗中傷とひとまとめにされ、批判その物が許されなくなることもまた恐ろしいことです。

ですから悪いものを悪いと言うこと自体は、決して間違ったことではありません。悪くないものを悪いと言ってしまうことこそ、誹謗中傷であり悪口なのです

この前提を持った上で、現在ネット社会を殺伐とさせている誹謗中傷の正体に迫って行きます。きっと普段から誹謗中傷を繰り返す多くの人は、この文章を読んでも自分の行いは「批判」であると解釈するでしょう。しかしそれは違います。

何故なら、「自分では批判だと思っている誹謗中傷」こそが、今のインターネットにはびこる最も邪悪な概念の1つだからです。

度を超えた批判は誹謗中傷と化す

批判の際、最も気を付けなければならないのは、批判のつもりが誹謗中傷になっているという状況です。

悪いところには理由がありますが、それを指摘する自分自身は、事実よりも憎悪や嫉妬などの感情で動いていることは少なくありません。むしろ非常に多いと言えるでしょう。

こうなってしまうと、自分自身は正しいことを言っているつもりでも、周りから見ると鬱屈した感想を述べているようにしか見えなくなってしまいます。

インターネットに存在している多くの人はこの状態に陥っています。悪い行いを批判したいあまり溢れ出る憎悪を抑えきれなくなり、ついには批判の域を超えた誹謗中傷を始めてしまうのです。そして彼らは、正しい批判を行っていると信じ込んだまま行動を続けます。

確かに悪いことをした人を批判することは必要な行動であり、万人に等しく与えられた権利です。しかしそれは上述の通り、「具体的な迷惑」の指摘の範囲に留まった意見の中で成立する権利です。

例えば

批判

TVで暴言を吐いている芸能人Aを批判した。
何故なら子供の教育に良くないからだ。
加えてそれで友人が傷付いたからだ。

などは「正しい批判」です。
全てが事実に基づいた論理的なものであり、批判される側はそれを聞き入れて一考するべき内容です。もちろん、それを受けて行動を改めるかどうかはAさんの判断に委ねられていますし、その選択を強制する権利は誰にもありません。そこまで含めて批判なのです。

この内容を持って抗議することは、正当性がしっかりと存在します。当然その批判を批判する人も出てくるし、周りにどう思われるかはよく考えるべきでしょうが、声を上げることが間違っているわけではありません。

ですがこれに加えて

誹謗中傷

そもそもAは前から気に入らなかった。
声も顔も気持ち悪いし受け付けない。
発言にも常々品がないと思っていた。
TVに出ていること自体が問題だと思う。
あいつを表舞台から消してやりたい。

このような実際に起こった事象と全く関係のないパーソナリティに言及し出したり、その人の存在や仕事の内容について思考を波及させてしまったら全て誹謗中傷です。

批判は「悪い事実」の中で絶対に完結させなければならない分野であり、それを超えた人格批判は事実であろうが憶測であろうが共感を集めようが全て誹謗中傷にくくられます。

ひとたび発言が誹謗中傷の域に達すれば上の「正しい批判」も正しさを失い、ただただ発言の全てが誹謗中傷になり得ます。

悪いことをした人は責められなければなりません。しかしその悪いことと関係ない部分を、関係のない人間が責めることは認められていません。それが犯罪を犯したなどでもなければ、尚のこと慎重に考えなければならないでしょう。

そこの区別ができていない人達が「あいつは悪いことをしたからどんな言い方で責めても構わない」と考えてしまっているのが今のインターネットです。これは若年層の中での話ではなく、年齢問わず全ての人に当てはまる現実です。残念ながら批判を生業としているはずの政治家でさえ、その区別ができていない人が大勢いるようです。

何かを批判する時はその根拠が現実に存在しているのか、それとも自分の頭の中にしかないのかを意識して線引きを行う必要があります。そしてその線引きを絶対に超えない内容だけで発言をコントロールすることが重要です。

そして確実に言えるのは批判とは本来、意見や行動に対して行われるものであり、人に向けられるべきものではないということです。

罪を憎んで人を憎まず。
それを絶対に忘れないようにしなければなりません。

それを徹底できない人は、少なくとも公の場で人を悪く言うことは避けるべきでしょう。

おわりに

僕はこうして自分の意見を発信する人間として活動しています。ここに至るまでに多くのものを肯定し、多くの批判を繰り返してきました。

その積み重ねによってより深い思考や文章力を得られたと思っており、批判の経験なくしてこのような意見を発信することはできなかったと断言できます。これは僕個人で完結するような問題ではなく、社会全体がそのようなことの繰り返しで育ってきているはずです。

なので批判という行為そのものは、やはり社会に必要だと考えます。

それはより良い論理性を獲得するためでもあり、自分の中に鬱積した感情を正しい形で処理するための方法論としても機能します。

正しい批判の能力を得られれば、自分の中で自分の感情を正確に処理できるようになります。そうなれば、特定の個人をバッシングしたり晒し上げたりするような攻撃性は薄れて行き、ごく限られたクローズドな範囲での独り言で発散できるのです。

そういった能力の獲得や経験を積むことなく、直接的に誰彼構わず否定的なメッセージを送れるようになってしまった。それによって多くの人が自分の暴走を止められない社会が誕生しました。

これはネットの使い方の見直しとかSNSの規制とか、そういった短絡的な解決策でどうにかできる問題ではありません。もっと根深いところ思考の部分にしっかりと教育を施し、確固たるスキルとして定着させる。それができなければ、線引きのできない"正義の暴走"は蔓延り続けることでしょう。

今一度、我々は本当の問題が何なのかをしっかりと考えるべきなのだと思います。ただ一元的にその行為だけを責めるのではなく、何を考えればこの状況を変えて行くことができるのか。それをしっかり意識した純度の高い発信と議論ができる。そんな世の中になってほしいと思うものです。

 

 

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