表現活動

全ての文章は「という」の数を減らすことで確実に読みやすくなる

投稿日:2020年3月11日 更新日:

自戒を込めて。

長文を書く時、誰もが「という」という(←これ)言い回しを多用したくなる傾向があります。

「」で何かを挟んだ時、引用した時、第三者の意見調の言い回しを採用した時、何か1つのもの・出来事を指し示す時など、「という」を接続に使いたくなる場面は非常に多いです。

この「という」、文語表現の中では口語的な意味合いを持つものであり、比較的ライトな表現です。ブログのような少し軽めの文章や、SNSのような完全に口語体で書くような媒体ではとにかく便利。

しかし、長文を書く際の「という」は、意外と不必要な文字でもあるです。

読んだ時のリズム感は悪くないので見落としがちなのですが、目で追うことを考えるとこの「という」の三文字がすごく邪魔…という(!)ことが起こり得ます。

この記事では「という」が文中に登場しやすい理由と、それが不要な理由を解説して行きます。

多くの「という」は言い換えられる

まずは例文を持って説明しましょう。

例文

昨日、山田太郎という人から道を尋ねられた。近所に知り合いが住んでいるということらしい。彼に場所を教えてあげたら、謝礼という名目で「ひよこ」というお菓子をくれた。こういうことをすると気持ちが良いものだ。

意図的に「という」「こういう」のような言い回しを連続させた文章を書いてみました。

この文章、声に出して読んでみるとさほど違和感はないと思います。ただ、目で見ていると何となく読みづらいと言うか見づらい。視覚的に冗長に見えるため、読む気を無くしてしまう文章になっています。

では、これをもう少し読みやすいように推敲しましょう。

例文

昨日、山田太郎さんから道を尋ねられた。近所に知り合いが住んでいるらしい。場所を教えてあげたら、彼は謝礼として「ひよこ(お菓子)」をくれた。良いことをすると気持ちが良いものだ。

文中の「という」を全て削り、意味が通る言い回しに調整しました。こちらの方がパッと見の印象が大分スマートになったのではないでしょうか?

実は文中に登場する多くの「という」は、別の言い回しや表現を活用することで消すことができるのです。

読みやすい文章を書くため、1つの文章を短くするのは基本中の基本。できるだけ多くの情報を取り入れつつ圧縮するには、不必要な表現を削っていくことが大切です。

もちろん全ての「という」が不要(悪い)わけではありません。例えば上の例文では「ひよこ」の後のものを消すために、「(お菓子)」という飛び道具を使用しています。また「山田太郎という人」を「山田太郎さん」に変更したことで、以前からの知り合いとも取れる内容になりました(=誤解を生む可能性がある)

これらのように「という」を残した方が意味が通じやすい・読みやすい文章も多く、表現そのものは有効に活用すべき。現にこの記事中にも必要に応じて「という」が使われています。

何かを指し示す時などにはベストな表現であり、それらを無理に消す必要はないでしょう。有効なものを残すために、不要な表現を削除していく。その意識が大切です。

文中に書かれている「という」が本当に必要なのかを吟味することで、より読み手に寄り添った文章が書けるようになるのは確かです。

口語と文語 伝え方の違い

では何故、書き手は「という」を多用してしまうのでしょうか?

上項の例文内で説明すると、「住んでいるということらしい」「謝礼という名目で」辺りの「という」はほぼ不必要な表現です。ですが、書き手が無意識に入れたくなってしまうのもまた不要な「という」という現実があります(「という」という…)

それはこの「という」が、説明を強調するために挿入されているものだからです。そして書き手は、何かを説明したくて文章を書くことが非常に多いです。

例えばですが、ここで例文を口で誰かに説明する=完全な口語だったらどうなるかを考えてみましょう。

例文

昨日さ、急に山田太郎って人に話しかけられて、まぁ道を聞かれてさ。近所に知り合いが住んでるってことだったみたいなんだよね。それで場所を教えてあげたんだけど、そしたらお礼ってことで「ひよこ」をくれたんだよ。お菓子のね。なんかこういうことすると気持ちが良いもんだなぁって。

文章にするとウザいですが、口で友達に話すとしたらこんな感じでしょう。

文語体で登場する「という」は、この口語で言う「って人に」「ってことだったみたい」「ってことで」のような説明の接続語に当たる部分に使われています。

これらは「その時初めて知った」「自分は他人のことをこう解釈した」といった細かい意味合いを込めるために利用されています。この接続のおかげで、聞き手は瞬時にその状況を飲み込み、会話を行うことができるわけです。

ですが、口語を文章にそのまま起こすと非常に気味が悪い感じになってしまいます。よって、何かしらの文語的調整が必要です。

口語で話している説明的な要素をなるべく残したまま、文語的におかしくない表現を考える。すると必然的に「という」を使った文章が思い浮かんでしまうのです。

すると、近しい位置に多数の「という」が存在する文章に仕上がってしまい、文章表現的にもイマイチで視覚的にも読みにくい構成に着地します。

読み手目線で考えること

前述した通り、この「という」の問題は読み返した時に"自分で気付きにくい"ことです。

自分の中では説明したいことは全て含まれた文章のはずですし、それを最小の表現で実現しているのだから問題はない。そう判断してしまいがちです。

しかしながら口語には必要でも、文語には必要ではない表現も存在します。文章は会話よりも時間をかけて、何度でも読み返して意味を知ることができるからです。

例文(再掲)

昨日、山田太郎さんから道を尋ねられた。近所に知り合いが住んでいるらしい。場所を教えてあげたら、彼は謝礼として「ひよこ(お菓子)」をくれた。良いことをすると気持ちが良いものだ。

この改稿後の例文は「という」を排除したことで説明的には不十分な構成、100%を書き切れていない内容になっています。ですが、読み手が受ける印象は改稿前のものとほぼ変わっていないはずです。

書き手は脳内の全てを文章にして伝えたいと思ってしまいがちなものの、実際は書いていない部分も読み手には伝わります。であれば、読みやすい(読んでもらいやすい)文章に仕上がっている改稿後の方が、純粋に「優れた文章である」と言えるのではないでしょうか。

読み手目線で考えた時、"技術として"不必要で冗長な表現はたくさん存在していて、それは味や個性以前の問題です。そしてその1つがこの「という」を多用してしまうことに間違いはありません。

今日から文章を書く時、不要な「という」がないかの確認を是非行ってみてください。半年後には確実に文章の質が向上していると思います。

おわりに

「という」の必要性は、書き手にとって普及の課題だと思います。何も考えずに文章を書くと自然と打鍵してしまっている表現の1つです。

かく言う僕自身もそれと戦っている身。
特に筆が乗っている部分ほど登場率が高い傾向があり、後から見直すと「なんでこれで良いと思ったんだ?」と思ってしまうこともしばしば。このブログでも、まだまだ意識が低かった昔の記事なんかは割と多いでしょうね。自戒の意味を強めて記事にしました。

気を付けても気を付けても、伝わりにくい表現をゼロにできないのが文章です。何故ならこちらは書き手であちらは読み手だから。求めているものとしたいことが違うのだから、相互理解は100%にはなり得ません。

その中で1つでも誤解や読みづらさを解決できる文章にするため、技術的なことを煮詰めて行きましょう。

この記事がその一助となりましたら幸いです。良い物書きライフを。

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