ある作品を見て、その感想を語る場があったとします。
普段から色んな作品を見ていて語ることが好きな人の中には、つい熱がこもった感想を言ってしまったり、他の人にはない意見を言ってしまうことがあると思います。そんな時に――
「価値観が違うよね」
「そんな見方あるんだ」
「そんな難しい話はしてないよ」
「普通に面白かったって言えないの?」
という、どこか煙たがられるような反応をされることがある。
それだけならまだしも、馬鹿にしているような口ぶりでかわされることがある。
こういった経験がある方がたくさんいらっしゃると思います。相手に合わせて本当の感想を口に出さなくなるというのもよくある話。
人によって「感じ方が違う」のは当たり前ですし、その感想1つ1つは十分に尊いものです。深い考察をする人がいて、浅い楽しみ方をする人もいて初めて作品とは成立して行くもの。それその物を否定するわけではありません。
ですが、僕は思うのです。
世間ではあまりにも「作品を読み解く能力」が評価されていないと。それは著しい社会的損失に繋がっているのではないかと。
作品の読み解きはトレーニングが必要な分野
世の中には、そもそも「本当に限られた感性でしか作品を読み解けない人達」がいます。
このような人達は、自分達の感性外にある作品を受け容れることをしないのです。自分達の知識と身の回りにあるものだけで生きてきた人は、広い世界の存在を拒絶するからかもしれません。
僕は「作品鑑賞とはスポーツのようなものである」と考えており、作品の読み解きには相応のトレーニングが必要であると思っています。それを怠ってきた人は、作品を深く楽しむという手段を持っていないのです。
当然ながら、ほとんどの人が最初から難しい作品を楽しめるわけではありません。誰もが子供向けの簡単な作品から感(受)性を育み、その後の様々な人生経験を経ることで、フィクションの一般的ではない人間模様や人間性というものに理解を示せるようになる。作品を見て考えての繰り返しや積み重ねが、優れた作品を見る目を養っていくわけです。大人になってから「意味が分かるようになった作品」というのもたくさんあることでしょう。
その根拠となるのが、学校の授業の国語や現代文です。基本的にあれらは「文章を読み解くこと」を学ぶ授業だと思います。歳を追うごとに扱う文章は難しくなっていき、最終的にはごく初歩的な文学作品を扱うまでに至ります。
ああいった授業に対し「正解は人の数だけあるから意味がない」と言い放った経験がある方も多いのではないでしょうか。僕も当時はそういう学生の1人でしたし、今でもそれも1つの正解であるとは思います。
しかしそういうことを平気で言っているような人達こそ、意外と作品を読み解く力が備わっていなかったりするものです。これは恐らく「作品を理解することよりも、自分の考えを持つことの方が優れたことである」と誤認したまま大人になってしまう人が多いからでしょう。
実際は作品の本質を理解して分かりやすく語ることの方が100倍は難しく、国語の授業はその下地を作るために必要不可欠なものです。僕は大人になってからそれを理解して、作品を読み解く技術を自分なりに磨く選択をしてきました。その成果の一部はこのブログに書かれていると思っています。
「読み解く能力」は社会的に優れた才覚の1つである
意識や心持ちを確かにして作品と向き合わなければ、作品を読み解く能力は磨かれません。何となく作品を見ていたり、何も考えずに目の前のものを受け流している人は、いつまで経っても理解できる世界の幅が狭いのです。
目の前の分からないもの理解しようとする、キャラクターは何を思ってそこにいるのか考える、ストーリーが何故面白いのかを考察する、作者の意図や言いたかったことを答える、そのために作者の生きてきた環境を知る…などなど。
読解において考えること、やれることは山ほどあります。
それに時間を割き、自分の中に取り入れようとすることは紛れもない鍛錬であり努力です。娯楽や道楽、オタク趣味と判断されがちではありますが、身体を動かすことなどと本質は変わりません。それを極めるために積み重ねてきた内容、それによって培われた思考力はもっと評価されるべきものです。
以上のことから「作品を読み解く能力」というのは、幼少期からどれだけ沢山のことと真摯に向き合ってきたか、どれだけ多くの作品と触れ合ってきたかに繋がっていると考えられます。ただ遊んでいたわけでも、無為に力を使っていたわけでもありません。それらはちゃんと誇るべき経験であり、それに挑んできた人だけが持てる能力なのです。
読解は人の心を豊かにしますし、色々な状況を想定し、誰かを慮ることができる能力にも繋がっていくものです。身の回りで起きたことだけで世界が完結している人達に比べれば、はるかに色々なことを予想して対応することができるはずです。それは社会的な能力の1つとして、どうとでも活かすことができる素晴らしい才覚の1つであると言えるでしょう。
日陰者が正しく能力を発揮できる場所を作ること
しかし、残念ながら現代社会においてこれらは遊びの延長であり、無意味なものであるという価値観が広く根付いてしまっていると言えます。これは少し考えてみれば当たり前なことです。
作品の読み解きをせず、読解力をつけてこなかった人達が社会の中核を牛耳り、回していることが多いからです。
作品の読み解きに傾倒するような思考人間は日陰者として淘汰され、人前に出て明るく振る舞う能力を持った者こそが真の社会強者であるというのが今の一般論であると思います。社会の大多数のコミュニティにおいて、頭脳派は必要とされてないのが現実です。
学歴があれば扱いは多少なりとも変わります。しかし学歴が保証してくれる個人能力は主に「解決力」であり、その前段階を提案する「想像力」ではありません。そして現代の日本社会が圧倒的に欠いていると言えるのは、この「想像力」の方でしょう。
作品を読み解く力に傾倒している人間には、この想像力に優れた人間がかなり多いと考えています。日陰にいる者達に能力を披露できる適切な環境を与えることで、より良い形を生み出すことが可能なのではないでしょうか。
だからこそ、日本社会は作品を「読み解く能力」をもっと評価し、自分達の内側にもっと取り入れて行かなければなりません。
遊びの延長でしかないと考えるのではなく、それが1つの努力であり、将来役に立つ正しい積み重ねであるという意識をつくっていことが重要。そうして社会全体で心から創作物を楽しむ余裕や心を育むことが、新しい可能性を見出すことに繋がるのではないでしょうか。
まとめ
「作品を読み解く力」について語って参りました。
あえてあまり「読解力」と言わなかったのかは、「読解力」という言葉がもう玄人好みな言葉になってしまっているのではないかと思ったからです。
こういった記事にアクセスしてここまで読みに来てくださる方には、相応にこの読解力が備わっていると考えられます。ありがとうございます。それだけで…?と思われるかもしれませんが、ブログに書かれた文章なんてほとんどの人は見出ししか見ていません。そういう前提で書かれていますし、今はそういう世の中です。
僕のように作品観を高めるだけでなく、こうして人に分かりやすく意見を言うアウトプット能力を持っている者はもっと評価されるべきだと思っている(自分を上げていくスタイル)のですが、社会では若者と物理的な実績を持たない者には基本意見力も発信力もありません。
意見だけ言うと「口先だけのクズ」だと思われるので黙っています。そういう提案力の大事さを知らないのが日本社会です。想像力が足りないのです。結果、文章が読めない人でも分かるようなことしか行われなくなっていると思っています。
かねがね理不尽だと思って生きていますが、立場など関係なく良い意見は柔軟に取り入れ、正当に評価し、成功事例には褒賞を与える。それができるだけで、人材における適材適所の範囲は大きく広がります。
そういった社会に少しでも近づくことを祈ってこの記事を書きました。どうかどこかの誰かがこの記事で救われることを祈っております。