"かわいい"親知らずの一生
僕の親知らず―ー正確には右上の親知らずとの歴史は古い。
思えば彼は長い間、歯茎の下に眠ったままだった。
スッと生えてきた左上の親知らずを抜歯することになっても、出てくることはなかった。
こいつはきっと一生出てくることはないんだろう。
そう思っていた矢先に、彼は突然姿を現し始めた。
ほんのすこーしだけ角が頭から出ている状態。
しかし歯茎を突き破ることはなく、ひっじょーに中途半端な状態を維持していたのだ。しかもかなり長い間。
こいつはこのまま止まるのか。それともちゃんと出てくるのか。
舌で問い続ける日々が続く。気になるから舌で触るだろ。ほらこうベロベロと。
でも、何だかんだ言って少しずつ見える部分は広がっていき、最終的には歯茎を剥がし、歯の形が見えるまでに至った。
そこまでどれほどの時間がかかったか分からない。ただ物凄い長かったことは覚えている。
ここまで来れば、あとはメキメキと歯が外に伸びてきて、他の歯と同じように僕の身体の一部になるのだろう。
咀嚼のパラメータを3くらい上げてくれるに違いない。そう思っていた。
そうはならなかった。
何故かよく分からないが、とにかく外に出てくるのも遅かった。
阻害する歯茎は無きものにしたのに、出てこなかった。
ついには半分ほど生えたところで完全に止まってしまった。
途中で出てくることを諦めてしまったようだ。なんという堕落、堕落の極み。
おい、半分だと貢献値が低すぎる。社会活動に支障を来しているし第一歯が磨きにくい。
とにかく歯が磨きにくい。お前だけを直接ピンポイントに磨いてやらないと磨けない。他の歯と一緒に磨けない。
困る。困っていた。こいつは絶対虫歯になると確信した。親知らずはもろいことで知られている。避けようのない未来だと思った。
そしてついにその日は来た。
なんか違和感があるなと思って舌で舐めてみたらオイこれ穴空いてんな。
ポッカリしっかりと。ポカリスエット。これは人生最大。俺は人生妻帯(謎ラップのコーナー)
位置的にあまり痛まないところだったのが幸いし、大きくなるまでさほど生活に影響を与えなかったようだ。
しかし我が身体は告げてくるのだ。こいつを放置したら確実に痛み出すと。
散々特別扱いをさせた挙句、結局虫歯になる。
本当に困った奴だが、親知らずがデカい虫歯となっては抜歯以外の方法は残されていない。
仕方ないので数億年ぶりに歯医者を予約。最近フォロワーがよく親知らずを抜いていたのでブームに乗るぜ。
引っ越ししたので近隣のことがよく分からず、とりあえず家の近くで口コミが良さそうな老舗?の歯医者を予約した。
ついにこいつともおさらばだ。
なんか他の歯より困らされた期間が長いからか気になることも多いがまぁ仕方がない。
久しぶりの歯医者は何故か緊張する。
やっぱりこうあの独特の雰囲気は医者の中でも特別な感じがする。
歯医者に来る=麻酔注射みたいなところがあるからだろう。
名前を呼ばれ診察台に着く。
町の歯医者さんらしいちょっと古びた装置である。前に行ったところは新しいところだったからギャップを感じる。
出て来られた50~60代くらいの先生に病状を説明しすぐに確認
先生「あ、これね。抜くよね?早い方が良いよね?」
ワイ「そっすね」
話が早くて助かる。
こういう歯医者さんは見るだけ見て治療は次ということもあるのでそこが心配だったが、杞憂に終わったようだ。
即抜歯の準備を始める。
準備をしながら先生は
先生「抜いた後の歯茎から出てきた血液が固まって新しい骨や歯茎を形成して行くからね~ガーゼとかは同じやつを噛み続けた方が良いからね~取り換えたりしないでね~あと血液を拭き取ったり舐め取ったりすると治りがどんどん遅くなるから気を付けてね~まずいかもしれないけど自分の唾液と血液には菌はいないから、垂れてきた分は飲み込んでしまった方が良いからね~」
と聞いてもいないうんちくに近い治療後の対応を教えてくれた。勉強になります。
なんか楽しそうに仕事をする人だと思い、結構好感度は高かった。
先生「あ、麻酔内側と外側に3回打つからよろしくね」
ワイ「は? あ、はい」
唐突に突き付けられる現実。そんなに打つっけ???
ちなみに1発目は全然痛くなかったのだが何故か2発目3発目が激痛だった。逆じゃないだろうか。
いやでもきっとここが激痛だったということは、そこに麻酔を打たなかったら抜歯の時「ヤバかった」ということ。先生は正しかった。多分そうだ。
先生「じゃあ抜くね」
話が早いぜ。麻酔が効くまで時間がかかるんじゃないのかと思ったがスルーした。
先生「ゴリッとかミシッとか音するからね~」
抜歯は初めてじゃないから知っているが、その恐怖感を煽る具体的な説明はいるのだろうか???
まぁいきなり聞くよりは良い…のかもしれない。
そして始まるえげつない抜歯行為!テコの力を利用した攻撃が無慈悲に顎を攻め上げる!
ガッガッガッ!!(なろう小説感)
痛い!普通に痛い!麻酔3発も打ったのに痛い!
なんか変な音してるし勘弁してくれ!
先生「かっっった…おかしいな…」
おい抜けてねぇのかよ
先生「もう少し強くするね。ミシッとか音すると思うけど」
それはさっき聞いた早くしてくれ。
抜けてないのに痛いとか抜ける時もっと痛いんじゃないかと思って恐怖がせりあがってくる。
まぁしかしこれは想像の範囲ではあった。
親知らずは半分しか生えてきていない=埋まっている部分が多いのだ。
それはつまり抜く時により深く掘らなければならないということ。普通より力もいるだろう。
そもそも普通に抜歯方法でちゃんと抜けてくれるかも不安だったので、こういう事態は想定の範囲内。むしろ"良かった方"だ。
ぐいぐい顎が引っ張られる感覚を味わった後、さっきよりも大きな効果音がして、歯が無くなったのを感じた。
今度こそ終わったようだ。
止血剤を噛み込み施術は終わった。
診療台の上には抜けた親知らずが転がっていたので観察してみた。
よく見てみると、虫歯になっていた部分が黒くなっている。ほう、虫歯って酷くなると本当に黒くなるのかと思った。
先生「いやー結構大変だったね。でもキレイに抜けました」
うむ良かった。長年こいつに悩まされた溜飲も下がるというもの。
でも普通の抜歯より大変だったのは先生の方だろうと思い、少しトークをしてみることにした。
ワイ「こいつ半分くらいしか出てなかったから、ちゃんと抜けるのか心配してました」
先生「そう?ちゃんと頭はキレイに出てたから大丈夫だったけどね」
ワイ「あ、そういうもんなんですか」
先生「見て、かわいい歯…フフッ」
いやちょっとよく分かんない。
とんでもねー歯医者に来てしまった。
いや?いやまぁこう、業界人が自分の得意分野についてちょっとひん曲がったセクシーさを感じ取ってしまうというのはよくあること。俺だってこうセンスの良い言い回しとか見たら流石に唸ってしまうしまぁそういうこともあるんだと思う。
でも、すまん先生。それでも俺にはちょっとよく分かんなかった。いや?うん。いや?よく分かんなかった。
だって俺と先生初対面だし、おっさんだし、なんて答えて良いか本当に分からない。そういう業界トークあるんですか?
最後の最後で今までに感じたことがないセンセーショナルな風を感じながら久々の虫歯治療は幕を閉じたのだった。
数日経ち患部の状況も良好。
物もあまり気にせず食べられるようになったが、そうなってくると逆に気付かされることもある。
あいつ思ってたより仕事してたんだなァ。
いざ無くなってみると、そこで噛もうとしてスカッてしまうということがそれなりにある。
気付いてないだけで、ちゃんと生活に貢献してくれていたということだ。
すごく長い間気にし続けた歯だったので、何だか一抹の寂しさを覚えてしまうような、そんな感じなのだ。
…そうか、あの時先生はこのことに気付かせるために敢えてあんなことをいや絶対違うと思う。
こうしてブログの記事ネタになるという最後の務めまで果たし、天寿を全うした親知らず氏。
彼の物語は終わったが、僕の物語は続いていく。
ありがとう右上の"かわいい"親知らず君。今まで頑張ってくれて、フォーエバー。
願わくば次の人生でも一緒に時を刻もう。
いや良い感じに締めようとしても駄目ですよ。