期待大の作品ほど、声優は使われなくなってきている。
宣伝絡みもあるが、変な声で不自然な演技をするって、本気で起用側に思われている節もあるだろう。
型が目立ったり、台本読解が甘かったりの部分も…。先人が積上げた素晴らしい技は継いで行きたい。
誰が演るにせよ、これは大事だと思う。
— 上田燿司@ ルナティックス netflix (@yo_z_ueda) 2019年5月30日
2019年5月末から6月上旬にかけて、声優の上田耀司さんのツイートが行った一連のツイートがネットで話題となりました。キャリアを積んだ方々による声優業界の現況を憂う発言は、最近日ごとに増えているような感覚があります。
これに紐付く形で、芸能人や俳優の起用に対して「なんで本職の声優さんを使わないんだ」と思ったり、ベテラン声優の方々が言う「今の若手は芝居ができない」などの苦言を想起した方もいるのではないでしょうか。
僕は様々な経験をする中で、純粋にアニメやゲームを楽しんでいる人達(※芝居経験などがない)が考える声優さんの「演技の上手さ(演技力)」と、知識や経験を持った業界人が「求めているもの」に大きな差があると感じています。そして同時にこの差が明確に語られている場はあまり存在していないという認識もありました。
この違いを「分かる人にしか分からない」で終わらせている限りはエンターテインメントとしてあまり良くない帰結をしてしまうと思い、一度今の自分にできることを発信してみようと考えました。
今回は自分自身も声優を目指した過去があり、クリエイターとして現役の声優さんと作品創りをしたこともある書き手として、この差を埋める一助となれればと思いこの記事を書き始めました。
よろしければお楽しみ下さい。様々な解釈がある分野だと思いますので「個人の一解釈」「こういう考え方もある」という見方をして頂けると幸いです。
「演技」と「芝居」の違い
声優/俳優という職業に必要とされる知識や素養、技術は様々あり、媒体やジャンルによって求められるもの(演技力)は少しずつ違います。その違いが俳優やタレントが声優を担当した場合に出てしまう違和感に繋がっていると考えられます。
この記事では、その必要とされるものの違いを語る上で、便宜上「演技」と「芝居」という2つの言葉を分けて考えます。
まずその言葉について、それぞれの特徴や性質を解説します。
演技は1人でするもの
一般的に演技力とは「何かになりきる力」のことを指します。
自分自身と離れたものにどれだけ近付けられるかはもちろん、自分の本心とは違う行動を自然に行えることも「演技力」に含まれるでしょう。
経験のない人達が考える演技の上手さとは主にこの演技力の高さを由来とするものであり、パッと見の凄さ、印象の良さは演技力によってもたらされます。
ここで言う「演技」とは、1人で行うものを指します。例えば漫画に声を当てる、テレビで見た俳優さんの真似をしてみる、脳内で作り上げた別人になり切ってみると言ったことは、家に1人でいる時もできますよね。こういった1人で研鑽を積むことで伸ばして行くことができるものを、僕は「演技」という括りに入れていつも考えています。
そして声優という職業に最も求められているのはこの演技力です。特にアニメやゲームを中心に活躍するような声優さん達は、この演技力を持っていないと仕事にならないでしょう。
声優はあてがわれる役の多くが現実の人間からかけ離れていたり人外であったりする上に、動きや表情も現実離れしている存在に「声を当てる」ことになりますから、それに合わせて過剰な演技をする必要があるのです。
売れる声優になるためにあなたが今しなければならない30のこと ~現場が欲しいのはこんな人~
普通の人が考える「過剰な演技」は、上記した「自分の本心とは違う行動を自然に行える」レベルを超えません。本人が過剰にやっていると思っていても、映像の方がもっともっと過剰なことが多いのです。このレベルの演技を声優演技としてマイクに乗せると、いわゆる棒読みになってしまうのが現実です。
一度、自分が考える最も過剰な発声を録音して映像に乗せてみるとその難しさを体感することができます。技術的な上手下手以前に「映像に届いていない感覚」を味わうことは、演技経験の有無に関わらず誰にでもできると思われます。
声優の技術とは、まずこの「届かない感覚」を認識するところから始まると思います。他ジャンルでは卓越した演技力を持つ俳優さんでも「声優と比べると棒読み」となってしまうことがあるのは、ここの認識が疎かだからです。そういう人達は学習も早いのですが、初挑戦からこの演技力がある人はなかなか珍しいですよね。
声優の中でもアニメやゲームと映画の吹替えなど、ジャンルの違いによって求められる技術は少しずつ違っていて、一般的には吹替えが最も難易度が高いと言われています。
生きた人間の動きに合わせて不自然ではない声を当てるのは、元の役者さんの息遣いや間の取り方に合わせた上で、違う言語の発声方法と日本語の違いを意識しながら的確な台詞にする必要があるからでしょう。もはや演技力というより、職人技に近いところがありますね。
ちなみにこの個人演技の過剰さ・演技力が同様に必要とされるのが舞台演劇で、最も必要とされないのがTVドラマなどの映像芝居です。ですから舞台を中心に活躍している俳優さんは、いきなり声優を任せても上手くできることが多く、テレビ中心の俳優さんは、媒体の違いに苦労される(下手に見える)ことが多い印象があります。
今の声優は「最大の演技」を求められる職業
演技が関わる全ジャンルで、恐らく最も過剰な演技を求められるのが声優です。このためアニメやゲームを中心に嗜む人達は、演技の上手さ=演技の過剰さと認識してしまっていることが多く、演技の良し悪しを語る基準が、ドラマや演劇を観る人達と比べて少し特殊なものになっていると言えます。
過剰な演技を演じ分けられる声優さんの力量は半端なものではなく、振り切った「最大の演技」を見る目については、アニメやゲームを中心に楽しむことで相当に鍛えられると感じています。そしてそれに慣れ親しみすぎてしまうと、それ以下の演技について物足りなさを感じてしまうとも言えるのです。
実際はそれ以下の演技の中にも様々な味わい深さや奥ゆかしさがありますし、媒体によっては最大を出さないことが正解であったりするのですが、なかなか自分が普段触れないものの良さを理解するのは難しい。数多の媒体に触れまくっている雑多なエンタメ好きか、しっかり演技の勉強をしてきた人や業界人でないと、演技というものを総括した上手い下手の判断をすることはできないと思います。
ですから声優に関しては、その界隈に属する人達(オタク層)が好む演技=過剰なものをとにかく求められる傾向が強まります。それは声優の演技以前に「今流行りの作風」自体がそうなっているから、声優に求められるものも「そういうもの」になってしまっていると言うべきかもしれません。
声優もアイドル化が激しい時代ですから、最近の若手達はこの「演技」がしっかりできていればとりあえずOKと判断されて、できるだけ若いうちから即戦力扱いで現場に投入されることも多い印象があります。そういう人達は若くして演技が本当に上手いですが、パターン化された「最大の演技」のバリエーションの範囲でしか演じることができません。
補足しておくと、この「最大の演技」による演じ分けは、声優という役者だからこそ習得しやすい技術で、他の媒体の役者さんとは違った持ち味でもあります。若くしてその域に達している人達はそれだけで凄まじい才能を持っていると判断できるのですが、それ故にそれだけを求められ続ける状況はもったいないとも言えます。
ベテランの声優さん達は、こういった事情の中でさらにバリエーションに富んだ演技を見せてくれるからこそ、本当の意味で卓越した技術を持っていると感じさせてくれますが、その域に達するにはこの「演技力」を極めていくだけでは及ぶことができないと考えられます。
それは役者にとってこの「演技」と同じくらい重要でありながら、今の声優業界では軽んじられてしまっているものがあるからです。
それこそがもう1つの括りである「芝居」というものです。
「芝居」は複数人でするもの
当然ながら、作品は1人の演技・演技力で創り上げられるものではありません。複数人の演技が混合し、様々なやり取りが行われることで1つの物語が紡がれていくのが基本です。ここで言う「芝居」とは、この複数人で行われる掛け合いのことを指します。
「芝居力」(あまり一般的な言葉ではありませんが…)とは、自分の創り上げたキャラクターで、自分以外の人とやり取りをする上手さのことを指します。
この上手さは、正直言って相当に演技か作品創り、作品分析に真剣に取り組んでいる人でないと「違いが分からない」部分です。ですから、この芝居の関係性作りが上手い人の方が役者としてはレベルが高いとされる傾向もありますし、それを理解できる人の方が玄人であるという価値観が業界には存在していると思います。
この芝居(関係性作り)の上手さが最も求められているのがドラマや映画などの映像だと思っています。カメラを通して役者のアップを中心に組み立てられるジャンルですから、映像では日常に近い抑えた演技を求められることが多いです。過剰な演技は逆に目障り耳障りになることが多く、他の人との噛み合わせも悪くなる(個人が悪目立ちする)ので嫌われます。
そういう背景から、ドラマを中心に見る人の「演技の上手さ」もこの「関係性の作り方」にウェイトが置かれていることが多いと思われます。知識として分からなくとも、数を見ていれば感じることはできる、という感じでしょう。当然、声優演技のような過剰さには馴染みがないですし、舞台役者の芝居でさえ「下手」「臭い」と判断する人も多い界隈です。
このような事情から映像の場合、「演技」よりも「芝居」の上手さが絶対的に重要視されます。アニメと違って役者の顔や立ち振る舞いは変わらないので、その人個人の魅力や演技力よりも、誰かとの組み合わせで独自の魅力を出す人の方が求められるからです。
この差について感じられそうな分かりやすい例を出すと、バラエティなどの再現VTRなどでしょうか。顔も良くて演技もそこそこ上手いのに、何故か連ドラより見ていて違和感があるVTRに出会うことがあると思います。その中には、芝居力が足りていない役者が演じているという理由のものもあるでしょう(※意図的に不自然に創られているVTRもあります)
なので稀にテレビに出ている俳優さんでは、絶望的に演技が下手クソ(に見える)のに、この芝居の上手さが光っているタイプの人が出てくることがあります。そういう人は「玄人好み」して仕事を貰い続けるのですが、演技がどう見ても下手なので視聴者に叩かれまくる事態が起きてしまいます。
僕も「本当この存在感はこの人にしか出せないな」と思いながらも、同時に「まぁでも演技は下手だな」と思ってしまうことがありますね…。
一般的には上述してきた「芝居(力)」も全て包括して「演技(力)」と呼ばれていることが多いため、業界人や経験者語る「演技」は、状況や場合、人によって何を指しているのかがかなり曖昧なところがあります。しかし、受け手が考える「演技」の幅は狭く、ほぼ「自分が楽しんでいる範囲のもの」に断定されてしまうのが現実です。
これが受け手と創り手の間の「理解の齟齬」を生んでしまっていると僕は考えています。